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豚インフルエンザによる大虐殺

ユースタス・マリンズ (1988年)


今では「豚インフルエンザによる大虐殺」として知られている風邪が流行したとき、米国大統領ジェラルド・フォードは全国キャンペーンを展開して国民にこの予防接種を受けさせた。

実はこの計画を裏で操ったのは大手製薬会社で、彼らはこの計略のおかげで一億三五〇〇万ドルの思いがけない利益を得たのであった。

初め製薬会社は、豚が感染する「豚インフルンザ」のワクチンを開発した。しかし用心深い養豚家たちは、ワクチンのために豚が全滅してしまうことを恐れて、このワクチンに手を出さなかった。 製薬会社は養豚家から単に八〇〇〇万ドルの儲けを得ようとしただけであったが、販売に失敗したので「市場」を変更することにした。つまり対象を「人間」に変えたというわけである。

全国的な豚インフルエンザの予防接種を直接推進したのは、ジョージア州アトランタにある疾病管理センターCDCであった。同じころ、日米欧三極委員会TCの米国委貞ジミー・カーターが、ジョージア州での大統領選の選挙運動を計画していたのは、おそらく偶然の一致であろう。

当時の現職大統領ジェラルド・フォードは、官僚機構の巨大な支持基盤を背景に選挙戦で断然優位に立ち、無能で名の知れないジミー・カーターなど問題ではなかった。しかし突然、アトランタの疾病管理センターから全国規模での「豚インフルエンザ」 の予防接種キャンペーン計画がもち上がった。実際には米国国内にこの病気に罹っていた者など一人もいなかったのだが、だからといって医療支配者たちは自分たちの計画を思い止まりはしなかった。

かつて養豚家たちは、数頭のブタにワクチンを接種する実験を見て衝撃を受けていた。なぜならブタは接種後に衰弱して死んでしまったからである。 そのあとで開かれた巨大製薬会社の役員会議が重苦しいものであったことは想像に難くない。 しかしある聡明な若手社員が次のように提案してから状況は一変した。 「そうですね。もし養豚家がこのワクチンをブタに注射しないなら、残された唯一の販売市場は人間だと思います」 

しかしフォードが支援したこの「豚インフルエンザ」キャンペーンは、ほとんど途中で挫折した。

その発端は、保健教育厚生省HEWにつとめ、その後食品医薬品局ウイルス局の局長として活躍していた良心的な公僕、アンソニー・モリス博士が次のような発言をしたことから始まった。

   「信頼すべき豚インフルエンザのワクチンなどあるはずがない。なぜならこの病気に罹っている患者などどこにもいないので、実験のしようがないからである」

さらに博士は声明を発表した。

   「豚インフルエンザのワクチンなど、まったく効果がない」

モリス博士はただちに食品医薬品局を解雇されたが、この計画はすでに損害を被っていた。

損害を穴埋めするため、偉大な博愛主義者ウォルター・クロンカイトと米国大統領は、力を合わせて医療独占支配体制の救援に乗り出した。

クロンカイトは大統領を彼のニュース番組に引っばり出し、国民に豚インフルエンザの予防接種を受けることをテレビを通じて訴えさせた。

しかし番組を放映したCBSは、それ以降豚インフルエンザワクチンの分析や科学的な批判をあえて報道する理由を見つけることができなくなった。しかし、ワクチンには多くの有害物質が含まれていることが明らかになっていた。見つかったのはウイルス性異種蛋白粒子、ホルムアルデヒド、ニワトリの卵の幼胚の残漬物、サッカロース、スィーモロサル(有毒な水銀誘導体)、ポリソルベート[界面活性剤]など約八〇種類の物質であった。

さて、モリス博士の方であるが、博士が食品医薬品局をただちに解雇された後、特別処理班が博士の使っていた四つの研究室を一掃するために突然押し入った。研究室には博士の言い分を立証するデータを持つ多くの実験動物が残されていた。これらの動物は約三年間の絶え間ない研究の象徴であった。特別処理班はすべての動物たちを即座に処分し、博士の研究記録もすべて焼却した。 彼らは部屋中に塩をまくことまではしなかった。自分たちの仕事はこれで済んだと思ったからである。

一九七六年四月十五日、米国議会は豚インフルエンザ予防接種の全国キャンペーンに、国民の税金から一億三五〇〇万ドルを提供する 「公法第九四−二六六号」を可決した。この法律で保健教育厚生省HEWは、州あるいは地方の保健所に政府基準に基づいて無料でワクチンを配布することになった。

しかし保険会社各社は、ワクチンの影響を予測しうるような試験がまったく行なわれていないので、もし予防接種が原因で製薬会社が裁判に訴えられたとしても、そのようなメーカーの損害の保険は引き受けない、という警告を公に発表した。

このような保険会社の態度を挫くために、ジェラルド・フォード大統領はCBSの番組に登場し二億一五〇〇万人の米国民に向かい 「まだ間に合ううちに自分の身を守り、親切な地域保健所に急いで行って無料の豚インフルエンザの予防接種を受けなさい」と熱烈に訴えた。この番組はCBSの名高い 「公共サービス」 の歴史上、最高の番組であったかも知れない。

けれども予防接種の全国キャンペーンがまだ終わらないうちに、ワクチンによる犠牲者が続々と報告され始めた。そして二、三カ月のあいだに、豚インフルエンザワクチンが原因で麻痺になった被害者からの賠償請求額は、合計一三億ドルにも達したのであった。

しかし医学界の権威者たちは、これに十分に対処した。この麻痺に 「ギラン・バレー症候群」[医学的には原因不明とされている]という新たな病名を付けることで医療独占体制の擁護にまわったのである。

「エイズ」が流行し始めたのは、フォード大統領が国民への予防接種を訴えてからまもなくのことであったが、この病気は単に豚インフルエンザワクチンのウイルスが変異したものであると推測する者が、今[1988]ではしだいに増えてきている。(引用注:1988年にはまだ、いろいろな議論があった。しかし、ヤコブ・ゼーガル博士らによって、「The Origin of AIDS 1989」、邦訳「悪魔の遺伝子操作」中で分析されているように、実際はヒツジの致死性ビスナウイルスとウシ白血病ウイルスを混合して作った可能性が高い。「予防接種キャンペーン」には、ブタインフルエンザワクチンの処理のためだけではなく、当初よりこういう病原体を植えつける意図があっただろう。エイズの開発は、1970年代に行われていたのである)

さて、豚インフルエンザ大虐殺の下手人、ジェラルド・フォード大統領はその後どうなったであろうか?

大統領は大失敗の責任を負うべき当然の人物として、国民の非難の嵐に耐えなければならなかった。その結果、まったく当然ながら、次の大統領選で敗北した(ちなみに以前フォードが大統領に指名されたのは、国際製薬トラストの諜報部員がリチャード・ニクソンを大統領執務室から追い出した結果であった)。

ジミー・カーターは、日米欧三極委員会TCの超秘密メンバーのあいだでしか知られていない、一般国民にとってはまったく無名の人物であったが、国民のフォード大統領に対する怒りのおかげで大統領選に楽勝して政権の座についた。

しかしその後、カーターが大統領[1977-1981]に選ばれたことは、国民にとって豚インフルエンザの大流行とほとんど同じくらい酷い災難であったことが明らかになるのである。(引用注:そして、「エイズウイルス入りワクチン」の注射・接種が始まったのだった。「同じくらい」どころではなかった)

一方、政治活動から引退したジェラルド・フォードは、選挙に負けただけでなく、残りの人生をパームスプリングスのゴルフコースで熱い砂地のコースを飽き飽きするほど歩いて上がったり下がったりするという刑に服することになった。

ユースタス・マリンズ 医療殺戮(原著:1988、訳書:1997) 第四章 死の予防接種 p196-200 より


 

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